たまや3号 その4
私が 「たまや3号」にこだわる最大の理由は
「生音とスピーカー再生音では指向特性が違う」
という点にあります。
楽器の音は点音源であり、その音が放たれた瞬間から四方八方の空間に拡がります。
それはまるで、水たまりに小さな小石を投げ込むと、そこに波が派生して放射線状に波が広がっていくようなものです。音の場合は空気を媒介しますので、その波の広がりは360度全ての方向に広がっていくわけです。
それを証明するのは
サントリーホールのような、客席全体が舞台を囲むような形(アリーナ形式)のコンサートホールがあるからです。

上の写真の場合、手前のお客さんは演奏者と対面に音楽を聞くことが出来ますが、後ろの客席にいる人は、指揮者と対面になるわけです。360度音が広がらなければ、こんな設計のホールは作りません。
私が10年前にふと思ったことは、
何ぼ音の良いスピーカーを、このコンサート会場に持ってきても、指向性のあるスピーカーでは、横や後ろにいる観客によい音は提供することは不可能だろう。
もっといえば、どんなに音の良いスピーカーを持って来ても、音がよく聴こえる人は、スイートスポットにいる数人だけだと。
そう思った瞬間、「あ、やっぱりスピーカーから出る音は、どんなにがんばっても、生の音とイコールにはならない」と思いました。
でも、「たまや3号」みたいな、無指向性のスピーカーならば、生と同じとは行かないまでも、せめて
雰囲気だけでも生に近い音がするんじゃないだろうか?

そう思ったからです。
ただ、オーディオという物は、本来
俺様が満足する音楽を、俺様だけに聴かせる最高の道具
なのでしょうね。
もっとも典型的なスピーカーはこんな感じでしょうか。・・・


私は数年前から、よい音のさらに上にある音は何か を考え続けました。
そして、最近ようやくその答えが見つかりました。 それは、
煩悩を捨てた音、つまり無の音
です。その瞬間、今まで考えてきたことがすべての裏側が見えるようになったのです。
私はこれからも、無の音を追求し続けようと考えています。
だから、たまやシリーズを発売することは止めました。
無の音を追求しようとするとき、一番やってはいけない事は、商売が絡む事だからです。
商売とお金は、ある意味「煩悩そのもの」ですが、これを止めてしまうと、生きていけなくなるので止めませんが、でも最終的な出音には、妥協しないつもりで、これからもかんばります。
「生音とスピーカー再生音では指向特性が違う」
という点にあります。
楽器の音は点音源であり、その音が放たれた瞬間から四方八方の空間に拡がります。
それはまるで、水たまりに小さな小石を投げ込むと、そこに波が派生して放射線状に波が広がっていくようなものです。音の場合は空気を媒介しますので、その波の広がりは360度全ての方向に広がっていくわけです。
それを証明するのは
サントリーホールのような、客席全体が舞台を囲むような形(アリーナ形式)のコンサートホールがあるからです。

上の写真の場合、手前のお客さんは演奏者と対面に音楽を聞くことが出来ますが、後ろの客席にいる人は、指揮者と対面になるわけです。360度音が広がらなければ、こんな設計のホールは作りません。
私が10年前にふと思ったことは、
何ぼ音の良いスピーカーを、このコンサート会場に持ってきても、指向性のあるスピーカーでは、横や後ろにいる観客によい音は提供することは不可能だろう。
もっといえば、どんなに音の良いスピーカーを持って来ても、音がよく聴こえる人は、スイートスポットにいる数人だけだと。
そう思った瞬間、「あ、やっぱりスピーカーから出る音は、どんなにがんばっても、生の音とイコールにはならない」と思いました。
でも、「たまや3号」みたいな、無指向性のスピーカーならば、生と同じとは行かないまでも、せめて
雰囲気だけでも生に近い音がするんじゃないだろうか?

そう思ったからです。
ただ、オーディオという物は、本来
俺様が満足する音楽を、俺様だけに聴かせる最高の道具
なのでしょうね。
もっとも典型的なスピーカーはこんな感じでしょうか。・・・


私は数年前から、よい音のさらに上にある音は何か を考え続けました。
そして、最近ようやくその答えが見つかりました。 それは、
煩悩を捨てた音、つまり無の音
です。その瞬間、今まで考えてきたことがすべての裏側が見えるようになったのです。
私はこれからも、無の音を追求し続けようと考えています。
だから、たまやシリーズを発売することは止めました。
無の音を追求しようとするとき、一番やってはいけない事は、商売が絡む事だからです。
商売とお金は、ある意味「煩悩そのもの」ですが、これを止めてしまうと、生きていけなくなるので止めませんが、でも最終的な出音には、妥協しないつもりで、これからもかんばります。